私の戦争・被爆体験
2021/10/06 お知らせ
私は昭和5年、長崎県生まれの91才です。現在は長男家族と一緒に、牟礼2丁目の団地に住んでいます。
昭和20年4月、女高生だったが学徒動員で大村の海軍航空機のエンジン製作の図面引き等の作業が現場でした。
8月9日の昼前、突然、ピカッと、異様な光!すぐに裏山の防空壕に向かうが、これはただならぬ、すごい光! と感じました。人々は「長崎にすごい爆弾」・・「長崎は全滅?」・・でも、そういう話は、あまりするな! のご時世なので、多くは語らず、みんな諫早に避難しました。
諫早の中学校が避難所になり、みんな裸同然で、大やけどの人、血まみれの人、見るも悲惨な姿で、教室の床に転がされ、手当ても治療もなく、うめき声! その匂い!などこの苦しみ! のたうつ様は、目を覆うばかりで、絶対に忘れることはないし、「瞬時に死んだ方が, 余程ましだ!戦争はダメ! 絶対にダメ!」と強く、言い聞かせました。
軍の許可を貰い、徒歩で2時間かけて、毎日、救護所の中学校へ通いました。瞬間値3000℃の熱線らしい! 避難者の約半分は名前も住所も不明のまま、共同墓地へ埋葬されました。
私は8月15日に列車の窓から引きずり入れて貰い、諫早で下車、諫早から長崎まで夢中で歩いて帰郷しました。
三鷹市牟礼(長崎被爆者)冨岡マサヨ